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苦節40年を振り返って…

いつも当ブログをご覧頂き誠にありがとうございます。

当社、代表取締役の安井でございます。
この新型コロナによる大変な時期に人生で初めてのブログを担当することになりました。
さて、なにを書こうかと思案しておりましたが、今年11月で社長就任40年を迎えることになり、会社設立からは54期目、先代社長が安井発條製作所を創業してからは実に67年が経過しております。
そこで、この長き歴史の私の生き様を、備忘録として少し書き留めておこうかと思います。

少々退屈なお時間かも知れませんが、お付き合いの程よろしくお願い致します。

会社創立と苦悩の記憶

昭和28年、父・安井忠義により安井発條製作所を創業(於大阪市西淀川区花川)私が6歳の時でした。

創業者  安井 忠義

このは創業地を思い返しスケッチしたものです。

花川工場(木造平屋建て)建坪約16坪

私が初めてこの地で父の仕事を手伝ったのは高校1年の夏休みの時でした。アルバイトとして半強制的で手伝ったのを覚えております。当時としては当たり前のことだったかも知れませんが、私にとって毎日、一日中φ3.00~5.00の押しバネの座面をグラインダーで手削りし、熱処理に硝石(重油を気化しボイラーで燃焼し溶かす)を使うため作業場に熱気と強烈な臭いが充満し、エアコンのない真夏の作業は大変きつく、苦痛の記憶しか残っていません。若かった私は将来の不安が頭をよぎり、父の想い(後継者)とは違う方向に舵を取るきっかけになったことは、間違いない事実であります。

高校3年の夏、大学進学で悩んでいた時、ふと2年の美術の授業で製作した作品が先生(恩師)に高評価を頂いたことを思い出し、勇気を出し相談したところ快く芸大受験のあと押しをして下さることとなり、親不幸かも知れませんが後継ぎよりデザイナーとしての道を目指すことになりました。

その時の作品がこちらです。

 

人生での貴重な大学生活4年間

第一志望は落としたものの、愛知県立芸術大学に偶然にも合格した私は一期生として新しいスタートを切ったのです。そこで出会った学友、各学部の諸先生方との出会いは現在の私のモノ作りに多大な影響を及ぼしたと思っております。

洋画家・島田章三、日本画家・片岡球子、グラフィックデザイナー・河野鷹思、工業デザイナー・由良玲吉…他多数、戦後の日本芸術を牽引して来られ、文化勲章や紺綬褒章等を受賞された錚々たる諸先生方に基礎実習して頂きました。その当時の作品の一部を掲載しておきます。

左側から順に『基礎彫塑実習』『紙を使っての立体構成』『人体デッサン』

こちらは 左側から『パステル画材でレンダリング』『 塗装実習を兼ねたスピードシェイプ』

大学3年に毎日工業デザインコンペに友人と共同製作(石油ストーブ)で応募、奨励賞を受賞、卒業製作では、連続掘削機をテーマにプレゼンした作品になります。

左側から『石油ストーブ』『連続掘削掘削機』と仕様図

創作活動だけでなく、当時は学生運動が盛んな時期でもあり、書道部や剣道部を仲間と立ち上げたりなど多少なりとも充実した4年間を過ごしました。

 

社会人(工業デザイナー)としての10年間

大学卒業後は某電気メーカーに就職。当時では華やかな工業デザイナーとして社会人の第一歩を踏み出しました。その年(1970年)は日本の高度経済成長を遂げたばかりの活気ある中で、大阪万博が開催され、技術やあらゆるデザイン、ファッションの飛躍した年でもあります。 己のデザインしたものが形になって世に出ることに誇りを感じると共に重い責任を課されたスタートでもありました。 しかしこの10年間は私にとってデザインとの葛藤の連続でした。大学4年間でバウハウスの教育思想からベーシックな製作活動をしてきた自分と、企業組織の一人としてデザイン活動する中で自分を見失うことも多々ありました。

教授から 『一に体力 二に説得力 三、四がなくて 五にセンスと話されていたことが思い出されます。当時教授がデザイン事務所を東京で経営されており、仕事を得るにはデザインセンスも必要であるがそれより如何にインパクトのある説得力が必要であるか!企業内でのデザイン活動の理想と現実のギャップを感じていた私は、この意味が理解出来たように思います。とはいえ、そのことも含めこの10年間は企業の組織と多くの個性ある上司、同僚、後輩の出会いが私の阪神精密40年間の礎になっていることは確かであります。

当時の仕事の一例です。

左側から『カセットテープレコーダー』『ビデオカメラのアイディアスケッチ』

阪神精密に入社の決意!!

1980月先代社長が他界し、今まで想像だにしていなかった後継ぎ問題が浮上!!当時の工場長が引き継いで下さると思っていましたが、当人からどうしても「後継者として会社を引き継いで欲しい」と懇願されました。突然の話で、父の死のショックと10年間お世話になっている会社を考えると即答は出来ませんでした。バネ作りの知識や経験もなく、ただ“親子”というだけで会社を継承することに周囲は大反対でしたが、従業員とその家族、各お取引先への配慮を考え、『工場長が私を一生バックアップする』の一言で私の迷いが払拭し、引き受けることになりました。又、当時はまだ独り身(母は1947年50歳で他界、弟妹は家庭持ち)であったことも決断の要因でありました。

198012代表取締役に就任、阪神精密発条株式会社に改組(1967年)してから13年が経過、花川工場でのアルバイトから実に17年になります。就任時、1969年佃新工場が完成し本社工場として、花川工場はガータースプリング専用工場として小規模でありながら2工場体制で操業しておりました。

佃本社工場(軽量鉄骨2階建て)建坪40坪

花川工場は自動機コイリングマシンと自動ジョイント機の設備がそれなりに充実、それに比べ本社工場はコイリングマシン2台(1台は使用不可)、トーションマシン2台(巻きのみで全て手加工) 、研磨機1台と充分な設備ではありませんでした。

父なきあと、工場長が納期管理、見積もり、自動機のセット、パートさんへの作業の指示、内職者には加工品の手配から二次加工の治具製作等、あらゆる業務を一手に受けている姿は、今思っても大変な仕事量をこなしておられたことに敬意を表し感謝しかありません。

 

阪神精密、改革への第一歩

まず、この会社で何をすべきか、自問自答の連続でした。工場長からは「事務所で社長業に従事してて下さい!」と言われても先の見えないゼロからのスタート。帝王学を学ぶこともなくこの世界に飛び込むことの無謀さは今でこそ良くやったなぁ!とも思いますが、その時は若さ所以、恐れない強い気持ちと無知から来たものだと思います。今とほぼ同じ従業員数ですが、私が入社して3番目に若いという高齢者集団でした。工場長一人が奮闘している会社が一歩間違うとアッという間に傾いてしまう脆弱を目の当たりにして、何か手助け出来ないかと考え、取り敢えずは現場に入ることにしました。

工場長からは先ず「コイリングマシンを使ってほしい」と要請されました。工場長がコイリングマシンのセッティングに時間を要することは他の作業に支障をきたすことは明白でありましたので、私は即座に快諾しました。しかし、コイリングマシンの扱い方はどうも亡くなった父が使っていた為か、工場長もにわか仕込みであり確かな指導も無く、私は試行錯誤しながら、徐々にマスターしていくことになりました。そして手加工から自動機への移行に重きを置きつつ、工場長の職人技術とのコラボで前途多難なスタートの幕開けとなります。

 

阪神精密の目指す方向と設備充実

以前、弱電の会社で資材の方達とも交流があり、バネの情報は多少なりとも把握していました。実際現場に入りバネ製造に関わってみると、引きバネ、ネジリバネとも手加工が主で、当時大手バネメーカーは自動機で一発成型!! 我が社の量産設備の遅れを痛切に感じざるを得ませんでした。

そこでまず、やらなければならないこと!!
極力お金をかけず!!

1. 現場に的確な作業指示をする為の作業手順書(図面と履歴管理等)の作成(事務所)

2. ばねの熱処理に硝石を溶かす危険な作業から、効率と安定を優先し電気炉に変更

3. 老朽化したコイリングマシンを改良し、極力精度を高く安定したバネ加工で生産力アップに繋げる

この3点は即実行に移しました。特に3つ目は学生時代と前社のスキルが反映され抵抗なく改善できたと自負しております。

当時の我が社は営業皆無でしたが、バネの二次下請けがメインであり各お取引先の営業さんから押しバネ座面研磨の話がちょくちょく舞い込んで来るようになり、コイリングマシンの扱いも習得、自信に繋がる中、他社メーカーが敬遠する押しバネ研磨に特化するのが得策と考えるようになりました。奇しくもバブル景気前兆であり、大量の受注にこぎつけ、コイリングマシン、自動研磨機の設備を充実、生産規模の拡大に繋がり現在の基礎が出来ました。その後も、手加工を少しでも削減する為、引きバネ、ネジリバネ、線加工可能なマシン設備を着実に推し進めて参りました。

 

夢と波乱の連続

バブル景気のお陰で会社の業績も上がり社長就任後初めての念願だった慰安旅行(1990年)を実現

当時は平均年齢50歳以上の高齢集団でした

又バブル期の機械設備で本社工場が手狭になり、第三工場もしくは本社工場を売却し新たな本社工場を建てる!!と、2者択一で奔走する日々が続きました。土地高騰が足かせとなり、やっとの思いで確保できそうな場所は能勢の山奥(380坪)、既存の工場、家屋付!!役員会に提案、私の熱意に折れて協力して下さいました。資金調達に目途が立ち工場リフォームの設計図も出来上がった頃に突然やって来たバブル崩壊(1991~) 金融引き締めの為、追加資金も暗礁に乗り上げ断念せざるを得ない状況となりました。

そして、土地と借金だけが残りました…

 

思い描いた能勢工場の外観設計図と、無念にも台風で骨組みだけを残して朽ちた建屋

一時は倒産が脳裏をかすめましたが何とか経営を続けることが出来ました。

しかし、60歳を迎えた工場長と工場長の奥様(経理担当)の突然の退職(1994年)!!ショック!!
一難去ってまた一難、花川工場の主力ガータースプリングの転注と言う事態に、一時はパニック状態になりましたが、現経理(家内)と経営分析を行った結果、何とかなると決断し花川工場の閉鎖を決行(1997年)、従業員はパートを除き佃本社工場に引き取る事となりました。本社工場の設備充実のお陰もあり何とか危機を回避する事が出来ました。
良くも悪くも本社佃工場は次への飛躍の思い出満載の時代であったと思います。

 

新たなる希望に挑戦!!

一時は断念した広い工場への移転は、今後の成長戦略を考えた時どうしても必要不可欠!!そのスタンスを踏襲し二度と同じ失敗はしない!! と慎重に再度工場探しをすることになりました。

対象条件としては…

1.先ず、工場スペースが倍以上確保出来ること!!経済リスク軽減の為、借り工場で良い!!

2.現在勤務されている方全てが通勤可能な範囲!!

.お客様の駐車スペース確保!!

不動産屋から5~6件の紹介を頂き、やっと我が社の理想と思える物件に出会うことが出来たと思えたのが現在の地です!

この地に移転(2004年)してからは若い人にも恵まれて、設備も日を置くごとに充実、リーマンショック(2008年)、そして今年の新型コロナの渦中でも、恐れる事無く泰然自若で社員全員が共有できる環境が整ってきたことを実感しています。

またこのホームページの開設によって、毎月のように投稿してくれている従業員のブログもその証と言っても過言ではないでしょう。 今では営業の重要なツールとして地位を確立しているのではないでしょうか!! 毎回ご苦労様です。

 

今、未来に伝えたいこと!!

今から3年前、我が社は会社設立五十周年記念パーティー(2017年6月)を内輪で細やかに行ないました。

挨拶の中で、今現在あるのは阪神精密発条に関わって下さった諸先輩、並びにお取引の皆様、現在従事して頂いております従業員に心から感謝の念をお伝えしました。そして50年を区切りとして新しいスタートにしようと宣言しました。

今まで、営業皆無で会社存続に限界を感じていた私は2017月に並川君を営業担当として迎え入れ、外のリアルな情報をキャッチし戦略的な経営を目指す方向を模索していますが、まずは社内の受け入れ体制がしっかり機能する組織を構築しなければなりません!! 現工場長の川口工場長を筆頭に我が社が培ってきたモノ作りの伝承人財の育成に全力を注ぎ、お客様と真摯に取り組む姿勢を常とすれば自ずと本来企業としてあるべき姿が見えてくるのではないでしょうか。

稲盛和夫氏は、『労苦とは己の人生を鍛える為の絶好のチャンス』 とある本の中で書いておられました。今まさに新型コロナで疲弊する会社と社員が一丸となり、試練をチャンスに変える機会を与えてくれているとポジティブに考えています。

これからも若い人達と共に、夢と希望を念頭に会社存続を模索し、バトンタッチが出来るようあと少し頑張って参りたい所存です。

現在の阪神精密発条株式会社 スタッフ一同

私に就いてきてくれる皆様に感謝!!

長々と書き記しましたが、最後までお付き合い頂き誠にありがとうございました。

 

 

 

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